私は、昭和12年8月1日、福岡県浮羽郡吉井町で、父信吾(シンゴ)、母主計代(カズヨ)の
三番目の子供として生まれた。父は町役場に勤め、母は小学校の教師をしていた。父は、漢学の素養があったらしく、姉に言子(アヤコ)、兄には信典(ノブフミ)と命名していたが私の名前、信也(シンヤ)は、叔父が命名してくれたそうである。恐らく、父の命名だったら、もっと難しい名前になっていたかも知れない。
私の生まれた吉井町は、筑後川が流れており、背後に耳納連山がそびえ、文字通り山紫水明 の地であった。浮羽郡の中心地で郡役所などがあったが、米や麦、菜種の栽培などのほかに、
山麓部には、葡萄、柿、蜜柑などの果樹園が続いていた。家の近くにあった若宮八幡宮は、景行天皇の行在所跡だったと言われ、境内は、子供たちの格好の遊び場となっていた。
私は、この恵まれた環境の中で末っ子として自由潤達に育てられたせいか、割合自己主張の強い子供だったらしく、小学校に入っても年上の子とは、意見が衝突して喧嘩になることもあった。母からは人の意見もよく聞いて、物事を判断するように、事あるごとに戒められたことを覚えている。しかし、同級生や下級生たちとは、喧嘩をした記憶はない。
母は、病弱だったが、しつけは割合厳しかったようで、たとえば、部屋の障子や襖は座ってあ
けしめするように言われていた。私たち兄弟は、これが当たり前だと思っていたが、たまたま 遊びに来ていた姉の友人が、これを見ておどろいたことがあった。
小学校の成績は、まあトップクラスの方だったが、ひとつだけ残念に思っていることがある。兄も姉も小学校6年間を皆勤で通したので、私も少しくらい熱があっても頑張って登校し、皆勤を続けていたが、6年生の11月の終わりごろ少し遠くに遊びに行って、雨に降られ、ズブ濡れになって帰ったことがある。その晩から高熱が出て、肺炎から肋膜炎を起こして、1ヶ月近く寝込んでしまった。あとひと息のところで、皆勤の記録を逃してしまし、今でも悔しくてならない。ついでに言うと、私が、大病をしたのは、この時だけで、その後は、至って健康で頭痛を経験したことさえない。
小学校6年生のとき、理科の実験で、炭焼きをしたことを覚えている。クラス全員が、何班かに分かれて、それぞれ校庭の片隅に小さな窯を築き、炭を焼いたが、火加減が悪かったり、焚口を塞ぐ時期を逸したり、窯の天井が崩れたりして、各班とも失敗してしまった。多少負けず嫌い
のところのあった私は、何人かの友人を説いて、再度炭焼きに挑戦することにした。しかし、材料を集めたり、窯の赤土を練ったりしているうちに、夕暮れとなり、友達は、ひとり去り、ふたり去って、私ひとりだけになってしまった。その日は先生と二人で火加減を見ながら、徹夜をしてしまった。初冬の寒さは格別で、私の体は冷え切ってしまったが、先生が、傍にいて下さったので心強かった。こうして、焼きあげた炭は、教室の暖房に使われて、クラスの人たちに喜ばれ
た。
私は子供の時から、乗物が好きだった。小学生のころ母に連れられて久留米の町に買い物に行ったことがあるが、その時の木炭車のボンネットバスのことなどよく覚えている。また私たちの家族は、毎年4月3日の太宰府天満宮の大祭に、揃ってお参りすることをたのしみにしていた。久留米まで国鉄で、久留米から太宰府までは西鉄電車を利用したが、電車に乗ると、私は一番前の運転台のうしろに立って、運転士の動きや、次々とかわってゆくパノラマのような沿線の景色を飽きずに眺めた。そして、大きくなったら電車の運転士になりたいなあと、子供心に思ったものである。修学旅行は、別府の地獄めぐりだった。久大線のSLに乗って、大分まで行き、港まで歩いて関西汽船の「すみれ丸」に乗船、別府までの船旅を楽しんだ。汽船に乗ったのは、この時が始めてだったが、思ったより豪華な船内を見て回ったり、甲板に上って別府湾をすべるように進む航跡や市内のあちらこちらから立ち昇る湯煙を眺めて興じたことなど思い出はつきない。
戦後の農地改革で、僅かばかり持っていた農地を手放すことになったが、父は二反歩を自作用水田として残した。私は、この水田で父から稲作を教えられた。田植から草取り、稲刈、脱穀までの一通りの作業を体験したが、稲刈が終わると、鋤き起こして麦畑用の畝を作り、麦を撒き、芽が出ると、麦踏みをした。春浅い畑で、雲雀の声を聞きながら、姉や兄たちと並んで麦踏みをしたことなどをなつかしく思い出す。一番難しかったのは、牛を使う鋤き起こしで、これは何度教えられても道具が大き過ぎて、子供には使いづからった。夏の暑いさかりの田の草取りも重労働だった。稲のまわりを手で掻いて草を取るのだが、稲の葉先が汗まみれの顔にあたって、チクチクと痛かったことや、指がふやけて、しわしわになったことなどいまでも忘れられない。こうして私たち兄弟は、米作りが大変な重労働であることを身をもって味わったのだが、今になって思うと貴重な体験をさせてもらったと父に感謝している。
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